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博多・冷泉地区プロフィール
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昭和41年(一部は44年)実施の町界町名改正により、以下の5ヶ町に再編されて多くの由緒ある町名が消滅した。(各町名をクリックすると詳細解説へ)
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店屋町
上西町、下店屋町、古小路町、箔屋町、下厨子町、下赤間町の全部。
上呉服町、上店屋町、下小山町、上厨子町、上土居町、中土居町、竹若町の一部。
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| ■下赤間町(しもあかんまち) |
| 町名は古来一帯が小高い土地であったためと思われるが確証はない。明治7年までは小山町上。呉服町流。福岡藩主の墓がある東長寺、維新の志士加藤司書切腹の地・天福寺、人魚伝説が伝わる竜宮寺がある。竜宮寺には博多七観音のひとつが、天福寺には博多七堂のひとつがあった。幕末の大店には乾物・蓮根野菜の蓮根屋一統、酒造の清水屋などがあった。明治6年、簡易科を付設した上小山小学校が開校。明治43年の市内電車開通で西側の人家は後退し、道幅は広くなって博多港や福岡市中心部へ通じる主要道路となって一帯はメインストリートとして賑わった。昭和20年の空襲も免れ、戦後さらに拡幅されて大博通りとなる。町界町名改正で冷泉町、御供所町となる。 |
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| ■下厨子町(しもずしまち) |
| 町名は博多七堂のひとつ瓦堂があったことに由来する。厨子流〜西流。上厨子町と同様、職人町であり磯野・深見両鋳物工場で働く人も多かった。慶応2年頃は深見藤五郎・深見甚助は人力車を取り扱っていた。昭和20年の空襲により町は焼失。戦後の区画整理で道幅は広くなり、古小路町で行き止まりの道は明治通りまで延長された。町界町名改正後は店屋町となる。 |
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| ■下小山町(しもおやままち) |
| 町名は古来一帯が小高い土地であったためと思われるが確証はない。明治7年までは小山町下。呉服町流。貞享元年に新水道が整備され、正徳4年には松ばやしの児子当番の町年寄として亀屋与三兵衛の名がある。 明治12年の町内の物産は筆、博多織帯地、蝋燭など。明治43年の市内電車開通により道幅が広くなった。昭和20年の戦災も被害を免れ、町界町名改正により店屋町、上呉服町となる。 |
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| ■箔屋町(はくやまち) |
| 町名は唐船が入港していた頃、唐人から金銀を箔する技術を伝習修得した箔屋達が住んでいたことに由来する。江戸期は箔屋番(はくやのばん)といった。西町流。古くは町内に諏訪大明神という小社があり、長崎おくんちで有名な諏訪神社は同社から勧請したものと伝えられる。江戸中期には博多織屋や鍛冶工、明治・大正期は醤油の榎実屋(中村清三)、代呂物問屋の米屋、油の更紗屋、博多絞等の商家が軒を連ねた。昭和20年の空襲により町は壊滅。戦後復興後に一大卸問屋街となったが、流通センターや福岡ファッションビルの開業により町の様子もさらに変化している。町界町名改正後は店屋町となる。 |
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| ■上店屋町(かみてんやまち) |
| 町名は袖の湊の頃、隣町の魚町に魚介の市場がたち、南の水際のこの地にも商家が建ち並び栄えたことに由来する。明治7年までは店屋町上。魚町流。享保年間には年行司も勤めた樋口藤五郎がいた。幕末期には博多織の炭屋・竹若一統やそうめん問屋・角屋、生蠣問屋の油屋、酒造の松浦屋などがあった。明治から昭和初期にかけても商家が軒を連ねたが昭和20年の戦災で全町焼失。戦後の区画整理で道幅は広くなり、三差路は四辻となった。また繊維問屋が進出して一大問屋街となったが、流通センターや福岡ファッションビルの開業により次第に問屋が減り、今は飲食店が多くなった。戦前東中洲にあり、原田種夫、火野葦平、北原白秋らが集い「博多の文化サロン」的役割を果たしたカフェ・ブラジレイロは昭和27年に同町へ移転し現在も盛業中。ブラジレイロに集う文筆家から多くの芥川賞・直木賞作家が誕生している。町界町名改正で店屋町となる。 |
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| ■下店屋町(しもてんやまち) |
| 町名は袖の湊の頃、隣町の魚町に魚介の市場がたち、南の水際のこの地にも商家が建ち並び栄えたことに由来する。明治7年までは店屋町下。魚町流。安部晴明が水の印を結んだ辻井戸があったと伝えられる。富裕な町で文化・文政の頃には質屋の松永宗助は博多きっての商人で年行司も勤め、一方では文化人として頼山陽などを招き自宅に宿泊させている。明治期から昭和初期、商店が軒を連ねて栄えたが昭和20年の戦災で全町焼失。戦後は道幅も広くなり三差路は四辻となり繊維問屋街となった。上店屋町と同じく流通センター等の開業で次第に問屋が減り、今は飲食店が多い。町界町名改正で店屋町となる。 |
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| ■上西町(かみにしまち) |
| 町名は太閤町割の際に最初に縄張りをした町が市小路町となり、その西側にあることに由来する。明治7年までは西町上。西町流〜西流。豪商神屋宗湛が町割を命ぜられこの町を興したことから宗湛町とも称された。また同町には年行司の中野彦兵衛がいたので中野番ともいった。楊池神社の境内には袖の湊の名残をとどめた楊池(やなぎがいけ)があったが、明治43年の市内電車開通で池は埋められ、社は若宮八幡境内へ移された。幕末には大商人が名を連ね、呉服の紙屋、乾物の八百屋、質の松屋、醤油の煙草屋、箸物の釜屋があった。中でも紙屋は紙与となり一族は明治から昭和にかけて呉服・金物・和洋紙の店を出した。紙与の渡辺與八郎は明治期の福岡市の発展に寄与し、明治36年の福岡医科大学(現九州大学医学部)誘致の際には、予定地の近くに柳町遊郭があることが問題となったが、與八郎は自費で新柳町(現清川)の4万坪の土地を買収し移転させることで大学誘致を決定させた。また、博多電気軌道(市内電車環状線など)の発起人として活躍し、没後に功績を称えて今の渡辺通りに名をとどめる。戦後は丸善博多店などもあった。町界町名改正により店屋町となる。 |
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| ■古小路(こしょうじ) |
| 町名は博多七小路のひとつであることに由来する。明治7年までは古小路町といった。魚町流。古来より豪商の町であり、中でも芥屋忠平と油屋久吉はその善行により黒田藩から表彰されている。忠平は代呂物・辛子油・紅花などの問屋で、間口十九間、奥行十五間もの店舗を持つ博多屈指の豪商となり、「一(市)は川端、二(荷)は茶忠」と数え唄になった。一方の久吉は鉄・鉛・銅・鍋釜を商い、明治になっても松下金物店として栄え、一方で薬「官許沈心湯」を販売した。文化文政の画家・石丸春牛もこの町の出身である。空襲で全町焼失。戦後の区画整理で縦筋の下厨子町と三差路であったものが四辻となった。町界町名改正により店屋町となる。 |
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| ■上呉服町(かみごふくまち) |
| 町名は呉服商が多く住んでいたことに由来する。明治7年までは呉服町上。呉服町流〜東流。町の東側に博多三傑のひとり・大賀宗伯の父・宗九が居を構えた。幕末頃には白銀細工、鍛冶職人の町となった。明治43年の市内電車開通により呉服町は博多駅と福岡を結ぶ交差点となり栄える。大正〜昭和初期には博多駅と築港を結ぶ主要道路に位置し、銀行や商社が立ち並んだ。交差点角の片倉ビルにはリンドバーグも宿泊した共進亭ホテルがあった。昭和20年の戦災で全町焼失したがいち早く復興、道路も段階的に広がり大博通りとなった。交差点角には博多大丸、博多帝国ホテルの入る東邦生命ビルが建ち栄えたが大丸は昭和50年に天神へ移転、のち博多寿屋となった。町界町名改正で店屋町、綱場町、中呉服町となる。 |
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※冷泉地区の皆様への聞き取りおよび参考文献より編纂。
参考文献/石城志、続風土記、続風土記付録、博多店運上帳、博多風土記(小田部博美)、日本地名大辞典福岡県(角川書店)、ふるさと100年(福岡市)、福岡町名散歩、博多郷土史事典(井上精三)、戦後博多復興史(落石栄吉)、福岡歴史探訪博多区編(柳猛直)、大福岡古今人物誌、ふくおか100年(江頭光)、博多いまむかし(朝日新聞)、博多くらしとガイド(西日本新聞社)ほか
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