博多・冷泉地区(旧冷泉小学校区)まちづくり戦後史 1945〜2007

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博多・冷泉地区プロフィール

旧町時代の想い出を、地域の皆さんから聴き取り調査し、その一部を紹介します。

祇園地区
旧矢倉門町には小さな路地がたくさんあった。
矢倉門から祇園町にかけては旧博多駅前のため、朝から夜遅くまで人通りが絶えなかった。
昭和30年代当時は住民も多く、早朝野球(ソフトボール)など親睦も盛んだった。
駅前歓楽街パチンコ、映画館、飲み屋街、ダンスホール(博多フロリダ)、スマートボールなど。
懐かしい旅館/東洋館、加茂川ホテル、樋口旅館、布屋旅館、山下旅館、かまや旅館、たつみや旅館など。
昭和21年正月、博多ホテル一帯が火災。進駐軍滞在中で延焼防ぐためダイナマイトで爆破。丸明館から出火。
博多駅の移転に伴い、旅館の廃業などで町の雰囲気も変わった。その後、マンションや入居会社が増え、町費の徴収・確保が年々困難になっている。
博多駅移転まで、一帯は駅前歓楽街で様々な人々が集い、ばくち打ちなど子供には良くない環境だった。
現在の「家康」の場所に寿軒(創業明治29年、大正7年築の本社屋は通称赤レンガ館と呼ばれた。博多駅移転に伴い昭和42年に現在地(博多駅東)へ移転。
博多駅の0番ホームの想い出。休日朝は寿軒本社売店に行楽客で行列ができた。
博多駅日本食堂火災。隣接する寿軒従業員は博多駅一番ホームから逃げた。
一朝軒(現在、御供所へ移転)は以前、矢倉門町にあり、長屋には虚無僧がたくさんいた。
山笠・岡流の想い出、岡流の飾り山は渕上デパート前。岡流消滅後も山笠時に旧下祇園町は「祇園寄り」を実施している。
昭和30年頃のバス定期/博多駅〜西新450円、昭和29年、市内電車2ヶ月定期260円だった。
鉄道沿い(現ファッションビルや商工会議所付近)には古物商、物々交換屋、質屋がたくさんあった。
祇園マーケットの記憶、八百屋・食料品店。周辺には床屋さんも多かった。
祇園マーケットができた当初(昭和26年頃)、現在の鍵屋の場所は俳優・小松政夫が住んでいた。今も小松は里帰りの際、隣接する「かろのうろん」へ立ち寄る。
祇園市場の各店が持ち分登記により中洲の新橋市場へ移った。
新道(しんみち)にあったビンゴ屋(坂田さん)には横綱大鵬が九州場所時に出入り。昭和30〜33年当時、萬行寺に相撲部屋が来ていた。
新道のビンゴ屋隣には博多映劇があった。近くには朝日パンがあり、博多駅を降りた通勤者が朝から立ち寄った。
国体道路の角には成金饅頭屋(植田さん)有り。当時、かき氷屋さん(蜜かけ)が 多かった。
かんこうデパートの通りはおカマの店が多かった。中でも三番館(ゲイバー)には若い頃の美川憲一が通っていた(昭和40年頃)。三番館は「朝昼晩」の二階、他に美少年、マックス、八番館など。
NHKのど自慢の常連、本永さんのお父さんは正調博多節で知られた。
瓦町の現福岡中央銀行のある場所には内田洋行があった。
昭和38年末渕上デパート火災(4階建全焼)の際は、町内全部燃えるほどの勢いだった。渕上は火災後1週間で仮店舗を再開した。
志賀島の行商おばちゃんから、酒の肴(魚介類)などを買い占めしていた。
昭和30年代、銭湯大人一五円、子供八円(千歳湯=現在の鉄なべの場所)。


冷泉地区
万行寺前町には筑前琵琶の製造工場、鋳物屋さんなどがあった。
昭和30年代は校区の境も曖昧で、山本旅館の東は御供所校区へ通っても良かった。
国体道路(23年完成)となる一帯は戦前(昭和19年頃)強制疎開で間引きされた土地で、空き地でよく遊んだ。
強制疎開の際、道路幅も拡大され道筋に防空壕を掘った(国体道路沿い)。
万行寺前町に長屋があった。一軒に6〜8名が住み大勢子供もいたが、今では町内全部で8人と少ない。
鹿島本館(2007年国の登録文化財となる)は、戦前最初は丸清館といった。昭和初期に大盛館となり、戦争後は米軍女性兵の寄宿舎だった。昭和27年に博多ホテルを経営していた牟田家(佐賀・鹿島出身)が移り鹿島本館となった。
町界町名改正で旧町が4つに分かれる際、町内全員で原鶴温泉へ家族旅行した。その際に町内の財産(行事の道具や旗など)も4つに分けた。
博多「町家」ふるさと館のできる前は櫛田裁縫学校の敷地だった。
一帯は以前は職人の町だったが、現在は本当に居なくなってしまった。吉村お面屋さんなどが懐かしい。
映画「博多っ子純情」に町人皆でエキストラ出演し、撮影に協力した。
今よりも溝や小路がたくさんあった。
博多駅の移転を受け、銀行の支店が新博多駅前などへ移転し町の様子も変化した。旅館などが無くなった。
昭和38年12月、博多駅の移転と同時期に博多郵便局も移転した。戦時中、博多郵便局は瓦町の渕上呉服店(のちの渕上デパート、ユニード)を間借りしていた。
萬行寺の昭和幼稚園の記憶。親子三世代で通った人も多い。
櫛田神社の第二駐車場の場所に清水組(現清水建設)の九州支店があった。モダンな建築でライオンの首の置物が印象に残る。清水組最初の支店は竹若町宝照院の浜側にあった。
むらた蕎麦店の場所に昭和52年頃まで銭湯「明月湯」があった。明月の名は柳町の遊女の名から取った(萬行寺に石碑あり)もの。
昭和55年頃まで朝日プラザ祇園の場所に博多人形(なかのこ焼き)窯と煙突があった。
藤木クリニック隣の富永さん(とみや)は車力屋(農機具)富永平八郎。木製とうみ(米の籾とり選別機)を扱っていた。
平成17年に取り壊された権藤の場所(現在駐車場。山笠のTV中継では今でも権藤通りと解説)は、昔は酒屋だった。
大春湯は戦前から営業、今の建物は昭和30年頃の建築。当初から基本は変化ないが、天井等は何度か貼り替え。
旅館の思い出/扇屋旅館(2区・宝商事の場所)、高嶋屋旅館、角に中村旅館。
博多鋏の「高柳商店」、「ますや」田中さん裏の一本路地に機織り機が置いて あった(昭和40年頃)。
大博通り沿いの松下電器や島津製作所は昔からあった。
山本旅館から大博通りへ抜ける路地には小さな店がたくさんあった。
バブル期に、町人が土地を競って売り、町内から出て行き大幅に町内人数が減少。特に会社や事業をしていた人が店をたたんだ。跡地の多くは百円パーキングになった。
昭和53年の福岡大渇水の時は、町内協力して乗り切った。
冷泉町内にいくつか現役の井戸がある。小島氏宅は現役で水質検査も良。しかし他の多くの井戸は飲料には不適切。
子安観音(旧赤間町)は昔から盆明け18日、19日が祭りである。
現在、冷泉四区の石村氏は独自に昭和18年強制疎開前の「竹若町」町並み図を記憶や資料をもとに描いている。


店屋地区
新道が旧赤間町町内を横断し、南博幼稚園のあった辺りが新道となった。
町改町名改正前は下西町(現綱場町)等からも冷泉小学校へ通って来ていた。
店屋町界隈は、横筋(東西)が問屋街、縦筋(南北)は職人通りであった。
店屋町の筋は戦前、木煉瓦(簡易舗装)だった。
山笠は櫛田流、呉服流、西町流、土居流、福神流があった(昭和38年頃まで)。厨子町、赤間町は櫛田流。新町になった後は西流。
店屋町界隈はどんたくは福神流と稚児流。旧箔屋町は町界町名改正以前は稚児流だったが、改正後は福神流。福神流には、飛び地で関係のあった中島町も入っている。
山笠の福神流は先に無くなり、その後は呉服流を加勢する等、所属の切り替えは案外スムーズだった。櫛田流も昭和38年が最後。呉服流は町界町名改正で消滅した。
松ばやしの際、金屏風をたてて土間でこぶ・するめ・かまぼこを出して開けている店が多かった。
昭和30年前後は草野球の全盛。ブラジレイロの先代は野球の審判をしていた。プロの審判、選手らも良く来ていた。
昭和30年代は従業員は住み込みも多く、ブラジレイロでも4〜5人いた。
店屋町界隈は戦後、繊維問屋街だったが、路面電車の廃止、地下鉄開通を経て、店飲食店が次第に増えた。
ブラジレイロは東中洲を強制疎開の後、支配人の中村安衛氏が昭和21年に上奥の堂町で再開店し昭和26〜27年に現在の地へ移転した。戦後の店屋町の賑わいを見ての移転であった。
ブラジレイロの並びにはパチンコ店の二階に富士映劇があった。
ブラジレイロの懐かしいカツ丼。名コックの納家氏会心作で人気があった。
ブラジレイロは昭和30年頃には冷房とTVを備え売りだった。昭和30年代後半のコーヒー60円。
店屋町の問屋街では昭和30年代から40年代にかけてゴルフとカメラが流行った。カメラ趣味の博多銀陽会は撮影旅行などに度々出かけた。
昭和28年頃東邦生命ビルができるまで、他に高い建物が周辺に無かったため、片倉ビルには雷がよく落ちた。
町内舗装工事の際、下水のマンホールが噴水状態で飛んだ事があった。
明治通り沿いからここ数年で銀行支店が無くなった。往時は都銀地銀が軒を連ね壮観だった。
戦後、西町角にあった丸善博多支店の想い出(平成15年閉店)。
鹿島覚衛門さんは松ばやしのまとめ役だった。その後現システムの初代会長は波多江氏。
市議長の妹尾氏の実家・かまぼこ屋が現店屋町セブンイレブン横にあった。
蕎麦のひさやさん隣に田惣旅館があった。旅館の裏手には銭湯があった。
昭和14年創業のチョコレートショップは最初、土居郵便局横から店屋町角へ移り、平成17年綱場町へ移転した。カフェは若い人のたまり場だった。


上川端地区
町界町名改正(昭和41年2月)以前は寿通りの道が校区境界。改正後も校区界は同じだったが市内電車がなくなった後に明治通りが境界となった。
町界町名改正により土居流消滅の危機。保存会で活動を続ける。保存会での第一回参加時は、地元の福岡銀行マスコット人形(スポンサー)を使用した。
町界町名改正により現在、同じ町内であっても、別の流に所属する人もあり、会計等が別でややこしい。
山笠の直会は、昭和50年頃は西町流四ヶ町に分かれてやった。
各町内には小さな神社があったが、世話人がいなくなり、櫛田神社に預ける。住民も少なく祭りをいつまで継続できるかが課題である。
古くから諏訪神社(旧中土居町)は毎年春と秋に祭りを実施している。
戦後、冷泉公園の計画が持ち上がり、町内の成り立ちが変化した。
戦前は磯野と深見(鉄工所)が冷泉公園敷地内(土居通り沿い)にあった。
昔はつき合いの無い家でもお悔やみの際は隣組で手伝うなどした。青年団が火の番や手伝いをした。また、大正〜昭和初期、お葬式は夕方行っていた。
冷泉公園/昭和23年公園化決定。昭和25年に一部(南側)整地、昭和30年4月1日に公園が開園した。平成7〜9年再整備されて現在の形になる。
戦前、木煉瓦道路があった時代は子供達の間で駒回しが盛んだった(空襲で焼失)。
昭和30年代初め、冷泉公園にはサーカスも来た。
栄昌寺の「じゅうご地蔵」は、旧片土居町有志が戦没者慰霊のため建立。毎年大空襲のあった6月19日に戦没者慰霊祭をしている。現在、西区へ移転したが、慰霊祭の日には皆でお参りする。
吉田陶器店(安政2年・1855年掛町筋で開業)は現在地の明治通りへ移ったのが明治43年である。
明治通り沿いは旧西日本銀行がなくなり博多座(リバレイン)ができて一気に変化。それまでの銀行などが皆移転しなくなった。周囲がオフィス街となり、一時期よりも人の流れは多いが、買い物客で賑わった昔とは違う。
片土居町の金比羅祭は年2回(4月と10月)開催。元々は馬出に移った称名寺(博多大仏があった)にあったものを、明治43年に櫛田神社境内へ移した。
片土居町の安部酒店は、戦災後に下土居町角から移った。
市内電車の廃止で町の雰囲気も変化した。百メートルもいかずに次の電停が見えていた。
松屋菓子舗(博多の誇る菓子の老舗、全国5本の指に入る歴史)は戦後、現在地へ移った。
博多部から次々に書店が無くなった。戦前から上西町角に丸善があって、戦後最初期にビルとして復興。平成15年まであった。また、吉田陶器店隣に昭和30年代は金文堂書店があった。
大崎周水堂の初代・大崎周水は報道カメラマンの先駆け。福岡日日新聞(現・西日本新聞)初のカメラマンとして博多へ移住、明治末から時事写真ニュースを張り出したり、博多の新名所や繁華街を納めた絵葉書シリーズなどを数多く発行。大正3年の「桜島大噴火」を捉えた写真は全国へ知れた。戦後の混乱期にそれらのネガ類は保存状態が悪く失われたが、101冊のアルバムが残っている。博多だけでなく東京でも写真展が開かれる。
以前は福岡銀行裏に鏡天満宮があって相撲大会などを催した。鏡天満宮が現在地へ移った後も、寿通りなど川端5ヶ町で共同管理している。
現上川端町二区は古くから商業者の住む町。戦後は統治下で昭和23年頃まで物価統制あり、その後自由に商売できるようになった。
博多駅の移転(昭和38年12月1日)により、人の流れが変わった。それまで博多駅から上川端通商店街を通って市役所や県庁方面へ行く人々で賑わったが、人の流れが消滅した。
昭和50年、nXコ年に市内電車が廃止され、さらに商店街の人通りが減少した。車窓から町の様子がわかる市内電車の方が良かった。地下鉄では町の様子は判らないので、用事がない限りぶらりと降りて立ち寄る事が少ない。
川端中央商店街と冷泉公園の北側は戦災で焼け野原となった。商店街の復興期、冷泉公園敷地は清水組の木材置き場で木材組み立て等を行っていた。
公園の南側が先に公園として整備。焼けた木材や瓦などはそこに埋められ、その上に土を盛っているため少し高くなっている(当時、運搬は馬車のみで置き場、処分に困ったという)。
今熊通りにあった今熊宮を櫛田神社内へ移して夏祭り「今熊祭」を実施。
祇園ビルは昭和25年築の3階建て集合住宅。福岡で現存する最も古い集合住宅のひとつ。ビルは商業協同組合と事業共同組合(マーケット)で管理。建築時から住んでいるのは一軒のみ(最後の一人、北崎氏は2007年死去)。
祇園ビルには昔、小松政夫の実家があった(鍵屋の場所)。
かろのうろんは、国体道路建設時に立ち退き現在地へ。最初は木造二階建て。昭和30年頃、素うどん一杯15円。
道路舗装前の師走にはしめ縄のリヤカー部隊がかろのうろん前に来ていた。
明月堂は昭和9年に上川端店の地に今泉から移転。戦時下から統制下の昭和25年頃までは金物屋をしていた。
戦前戦後の子供は家から三角巾のまま那珂川へ泳ぎに行った。旧大和ホテルの裏手で魚捕り、ウナギためだった。
山笠の棒は塩原辺りまで担いでいき、洗って持ち帰った(帰りは棒に跨る)。
上川端大神宮は、元々川端通り側に入口があった。
旧冷泉小敷地の藤棚の所に消防会館があり、その裏手に火の見櫓があった。
昭和30年頃は、商店街2〜30軒おきに井戸があった(ポンプ式)。
上川端通商店街は「上新川端商店街復 興組合」を結成、戦災からの商店街復興。昭和24年1月20日起工式(地鎮祭)、木造二階建瓦葺85軒。同24年12月24日完成、落成式を行った。
昭和32年7月、オーニング(軒)を各店から二メートルほど出して繋げた。通りはアスファルト。(昭和20年代は穴だらけのアスファルトだった)。
20年代、荷物は馬車で運ぶ。よく店の前で小便された。その後、昭和38年にアーケード設置。当時は合掌式屋根。昭和54年に円形アーケードに。
昭和41年10月14日、上川端通商店街135軒が2千万円を投じて人造大理石(テラゾール)カラー舗装完成。福岡市初のカラー舗装であった。「川」の字をデザインしたもの。2007〜2008年にかけて40年ぶりに改装中。


中洲・中島町地区
那珂川花火大会の思い出(大正6年〜水上公園より打ち上げ)
昭和20年代、中島町博多川沿いは屋台村だった。博多券番と料亭老松。
博多川の氾濫(昭和28年)。博多川にフタをしようという話が出た。
吉塚うなぎ店のカキ船。春吉橋袂の「かき善(春吉の太田氏)」。
「おくんち」の獅子がしらは、元々中洲が先に始めた。御遷宮の際に各町が手入れするようになる。
昔は住民も多く、町内旅行やレクリエーションがよく催された(昭和36年11月・松茸狩り等)。
博多駅移転後の昭和39年頃より、南新地にトルコ系店舗増える。
マリリン・モンローとジョー・ディマジオ(日活ホテル北の国際ホテル宿泊)は、滞在中ロイヤル「花の木」に通った。
昭和28年11月、人形町に江頭匡男氏がロイヤル(一階ロイヤル、二階高級レストラン「花の木」)開店。中洲がロイヤル発祥地。店舗のあった花の関ビルは2008年初めに解体予定。
昭和30年代の銭湯に中洲湯、武蔵湯があった。住み込み従業員などが頻繁に入りに来た。
水車橋のたもとには昭和30年頃まで畑があった(二丁目川筋)。
昭和23年3月「多門映画劇場」落成。
昭和23年10月3日、中洲市場協同組合結成、初代組合長に「いとや」首藤忠旦氏就任。当時25軒。引き揚げ者対象に募集、木造瓦葺き二階建て。一階が店舗、二階が住宅だった。
昭和23年10月5日、「ふくや」中洲市場に入居し開店する(翌24年1月10日、辛子明太子の販売を始める)。
昭和24年4月、福岡玉屋屋上に動物園開設。翌25年には四階・五階の一部に「玉屋シネマ」開設。
昭和41年、吉井勇を偲ぶ会が川丈旅館前に「五足の靴」文学碑建立。2007年は南蛮文学発祥「五足の靴」から100年、一行が博多で宿泊したのが川丈旅館。
昭和46年12月1日、近代的レジャービル「第一ラインビル」開業。
福岡玉屋裏の一角にあった福岡最初の高級料亭「福村屋」は昭和38年玉屋増築時に買収廃業した。
福岡玉屋の閉店(平成11年7月閉店、74年の歴史に幕)。
映画産業の衰退による映画館の撤退、シネコンの郊外進出及び既存映画館の他地区への移転が続く。2008年1月現在、中洲大洋劇場ただ1館が健在。
中洲五丁目町内会で昭和35年当時から今も営業しているのは、吉田時計店、大洋映画劇場、花の関ビル、千鳥屋、花キク、親和銀行、松居(平成十七年閉店)、松月堂、廣松燃料氷店、大阪屋と10軒(平成12年7月現在)ほどになった。
昭和22年、人形小路横町復活。復活時より開業していた「はな(石橋俊美氏経営)」は平成12年9月に閉店。
昭和29年9月2日、中洲初の高層ビル「ラッキービル」建設。
移転した福岡電話局跡地の活用について中洲連合会で検討を重ね、井上県議・南原市議・田中丸博商会会長・川原俊夫連合会会長を中心に「天神―県庁跡地―中洲―冷泉」間「福博プロムナード」構想の陳情を重ねた。昭和63年7月1日、電話局跡地にNパサール完成、その後平成11年春に新築された。
中洲4丁目の老舗・開業年/博多荘(昭和21年)、食事処「成きん」(昭和25 年)、蛇の目寿司(昭和25年)、一品香(昭和30年)、水炊き「いろは」(昭和28年)




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