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博多・冷泉地区の戦後と自治連合会40年のあゆみ
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市内電車の廃止と地下鉄登場
大通りの風景が一変、
ぶらり立ち寄る博多風情の消滅。
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商都博多の近代における繁栄は市内電車によるところが大きかった。明治四十三年(一九一○)三月九日に開業した福博電気軌道(大学病院前〜西公園間、呉服町〜博多駅前間)により貫線(現明治通り)が開通。東中洲から福岡側へと渡る中洲橋(明治四十一年架橋、同四十三年の市内電車開通により西大橋と改称)から呉服町へ至る新設通りは、従来の表通りであった博多六町筋(西中島橋筋の現昭和通り筋)に変わって表通りとなり、周辺には下川端や寿通りなどの商店街が発達、沿線には大手銀行や商店が軒を連ね、福岡玉屋や博多大丸などの百貨店も沿線に開業、戦後昭和三十年代末まで繁栄した。 市内電車は電停間の距離も短く、何台も連なっていく様子は絵になった。また、市内電車に乗っていると沿線の町並みや商店街の賑わいがよく見え、「ちょっと降りて商店街へ」というお客さんも多かったという。
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↑市内電車開通直後の川端町電停付近(明治44年)
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路線バスや自家用車の普及に伴う交通量増加で、市内電車は次第に邪魔もの扱いされるようになり、地下鉄線の計画も相まって廃止へと向かう。環境問題が叫ばれる現代であれば、即廃止とはならずに熊本や長崎、広島などの他都市の市内電車のように進化を遂げることができたかもしれない。地下鉄は便利であるが、ぶらりと電車を降りて町へ出るという気分にはならず、目的地への交通手段でしかない。
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↑旧博多駅舎と市内電車(大正初期)
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六十五年の永きにわたり市民に親しまれた市内電車であるが、貫線および呉服町線は昭和五十年十一月二日に廃止、残った循環線も昭和五十四年二月十一日に廃止となり、古き博多の風情が消えたのである。
終戦直後には西鉄が掲げた市内電車電停の統廃合問題に、地域を挙げて反対したものであるが、時代は変化し、新しい交通機関である福岡市営地下鉄が昭和五十六年七月に室見〜天神間に登場(全国八番目)。中洲川端及び呉服町まで開通したのは翌昭和五十七年四月であった。五十八年三月には博多仮駅間まで延伸し、祗園駅も完成している。
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↑土居町電停付近(昭和28年)
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地下鉄の開業により、博多〜姪浜間はわずか十九分で結ばれるなど、都心への集客効果もある一方で、住居は郊外へという動きはさらに加速。福岡市の都市計画と相まって郊外の環境の良い地へ住むという流れは、冷泉地区をはじめとする博多部の人口ドーナツ化現象を加速させた。
地下鉄網の進化と同時期にはバブル経済が到来、冷泉地区でも地上げや土地転売が進み、旧来の住民の多くが域外へと転出していくという、住民自治を考える上では大きな課題が現実のものとなっていった。 |
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↑東中洲界隈(昭和33年頃)
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