博多・冷泉地区(旧冷泉小学校区)まちづくり戦後史 1945〜2007


福岡大空襲と終戦
福岡進駐と接収統制
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商店街・歓楽街の復興
町世話人制度
博多祇園山笠と地域住民
博多松ばやし・おくんちと住民
昭和30年代のにぎわい
町界町名改正・流存続の危機
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博多駅の移転
店屋町界隈の変化
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櫛田神社と冷泉地区
地域教育
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昭和から平成へ
町世話人制度廃止と自治協発足
地域の課題と未来


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博多・冷泉地区の戦後と自治連合会40年のあゆみ
博多駅の移転
人の流れ、町の構成が大きく変化した。

 昭和三十八年十二月一日、冷泉地区の東南、馬場新町(現祗園町)にあった博多駅が南へ六百メートル移動した場所に新築開業、明治二十二年以来二代七十四年にわたり博多駅とともに発展してきた駅周辺一帯は、その後数年で大きく変化する。
 中でも駅前町として繁栄した馬場新町や隣接する上祗園町、矢倉門町、停車場新道などの表通りには大小様々なホテルや旅館、銀行の支店、商店が建ち並び、一大商店街を形成し朝から晩まで人通りが絶えることがなかった。表通りから一歩入るとパチンコ店や映画館、ダンスホールや飲み屋が連なり、歓楽街としても栄えた。
↑移転前の旧博多駅(昭和35年頃)

 主な旅館をいくつか挙げると、東洋館、加茂川ホテル、樋口旅館、布屋旅館、山下旅館、たつみや旅館などが現祗園町一帯にひしめき合っていた。
 駅の移転後、それらの旅館の廃業、移転が相次ぎ、今では数件を残すのみである。今では高層オフィスビルやマンションが建ち並び、小さな商店などが軒を連ねていた一帯や旅館跡は駐車場となっている土地も多く、往時の面影はほとんど無い。
 祇園町から国体道路を西へ向かった先の瓦町や上祗園町にかけても旅館や商店が立ち並んでいたが、今は人の流れも町並みも大きく変化してしまった。上川端通り商店街も旧博多駅があった頃は、駅から商店街を抜けて旧県庁(現アクロス福岡)方面へと向かう人の流れが絶えなかったが、移転後は人通りが激減し、渕上百貨店も大手のダイエーに吸収された。
 駅移転の影響は旧博多駅と天神を結ぶ中継地点であった呉服町界隈から明治通りにかけても大きく、その後の市内電車の廃止が追い打ちをかけて博多大丸の移転、都銀などの銀行の撤退が相次いだのである。
↑旧博多駅前の混雑(昭和35年頃)

 町並みの変化衰退はそのまま人の流出に繋がる。昭和三十年代は「住み込み」従業員が当たり前の時代であった。労働力不足から十代の若い労働力は重宝され、中学や高校を出て住み込みで商店や会社で働く若い世代がまた、町の活気を支える大きな要因であった。
 聞き取りを心よく受けていただいた寿軒、高木東雲堂、ブラジレイロなど、何れも住み込み従業員のいた頃の活気や想い出を語っていただいた。当時の住み込み従業員は、地域の構成員でもあり、当時を知るベテラン従業員には、成人式は冷泉地区で参加したという方も多い。
 昭和三十年代の各家庭はもちろん、住み込み従業員は皆、近くの銭湯へ通った。一般家庭に風呂が普及するのは昭和三十年代後半以降であり、冷泉地区にもたくさんの銭湯があった。祗園町の千鳥湯、矢倉門町の千歳湯、社家町の明月湯などはすでに無く、今は地域に一軒、大春湯があるのみだ。
 銭湯は地域住民の交流の拠点であり、夏は細い通りにバンコを置き、夕涼みをする光景が当たり前にあった。テレビが普及し、冷暖房が各家庭に完備されて、次第に地域の人々が触れあう機会は失われていった。
↑移転新築当初の現博多駅(昭和40年頃)絵葉書





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