博多・冷泉地区(旧冷泉小学校区)まちづくり戦後史 1945〜2007


福岡大空襲と終戦
福岡進駐と接収統制
戦後復興計画
商店街・歓楽街の復興
町世話人制度
博多祇園山笠と地域住民
博多松ばやし・おくんちと住民
昭和30年代のにぎわい
町界町名改正・流存続の危機
自治連合会の発足
博多駅の移転
店屋町界隈の変化
市内電車の廃止と地下鉄登場
櫛田神社と冷泉地区
地域教育
冷泉小学校の統廃合
地域の活動(運動会・成人式etc)
昭和から平成へ
町世話人制度廃止と自治協発足
地域の課題と未来


トップページへ
博多・冷泉地区の戦後と自治連合会40年のあゆみ
町界町名改正
都市発展のために消滅した伝統町名。

 福岡市の急速な都市化に伴い、市街地が拡大する中、中心市街地を中心とした公称・通称町名の混在や、道路の新設改良に伴う町界や地番の複雑化が市政運営や通信・民間業務などの発展に少なからぬ支障をきたすようになった。
 福岡市は全国に先がけ昭和三十四年より町名地番の整理に関する調査を開始、春吉地区をモデル地区としたが、三十六年には福岡市が実験都市に指定され、国の指導のもとに地番整理・住居表示作業を進めた。
 翌三十七年には「住居表示に関する法律」が施行され、同年八月に春吉・高宮地区で街区方式(道路や鉄道、河川などで区画する方式)による住居表示が実施されて、市民生活に多大な利便性をもたらすことが確認された。
 博多地区には、博多祇園山笠、松ばやしといった古い歴史と伝統を誇る行事があり、特に山笠の流れによる組織が、旧来の町をもって編成されていた関係上、実施までに様々な苦慮が伴った。また福岡市の中でも特に由緒ある町名が多く、一つでも多く在来町名を残すため、中洲地区を除き、他地区で見られるような町名の下に丁目がつかない単独町名が採用された。
↑町界町名改正前後の呉服町界隈(昭和41年)

 これより前、昭和二十五年八月に福岡市は町界町名改正調査委員会が発足。二十六年にはのちの整理の原型となる「街区方式(道路割り方式)」の答申案が出て、当時の住宅地図「福岡地典(昭和二十六年十一月発行)」にも当初案が掲載されている。これによれば店屋町から中洲に至る広い範囲が全て「竹若町○丁目」と表示されるなど、これを見た博多部の憤慨は大変なもので、昭和三十年十月には櫛田神社が十一流各町代表者連名(計二百十三人)で市議会に対して「格別な配慮を求める」請願書を提出している。この中で「伝統行事の基盤をなす流制は、単なる町界の変更という便宜主義一遍の見方では容易に解決されない精神的要素を含み、近代的都市への変貌という外形だけにとらわれて、これを強いて原案の如く実行されれば、町の行政的面に又経済的な面に極度の混乱は免れないことが予想されます。私達博多人として、この伝承の神事を守り、古来、博多繁栄の源泉となった伝統護持のため、町界の割り方を神事に支障なきよう予定線を変更して、流の特性を活かした町界を保持したいと念願いたします」と説明し、街区方式に反対した。
昭和40年の流地図
博多祇園山笠振興会発行「博多山笠〜30周年記念誌」(388頁より引用)

 三十二年には博多祇園山笠振興会が背割り方式維持の請願書を、博多山笠全流(十一ヶ流)代表者連名をもって提出している。その後も幾度となく市側と地域との話し合いが持たれたが、妥協点には至らないまま昭和三十九年には博多地区の整理が本格的に始まった。
 その後は見切り発車の形で昭和四十年十月に市議会に整理案が提案され、特に名称が消滅することとなった土居町について言及した執行部は次のように説明了解を求めた。
「土居町という名称は、非常に古い故事来歴をもっている。われわれとしてもこうした名称は極力残したいと検討してきたが、地元の意見が一致せず、土居町を残すという方々がごく少数である。これと同時に土居町だけを残すとすれば、非常に区画が小さく、博多部全体の町界町名の原則にも反する。(以下略)」
 博多人にとっては断腸の思いで、昭和四十一年二月一日をもって新町名へ移行実施された。太閤町割を含む由緒ある百三十三ヶ町はこれにより整理され、冷泉地区は祇園町・冷泉町・店屋町・上川端町・中洲(中島町含)の五か町に再編されたのである。
昭和41年の流地図
博多祇園山笠振興会発行「博多山笠〜30周年記念誌」(386頁より引用)
↑旧町名での最後の校区体育祭風景(昭和40年)




ご使用になるブラウザはInternet Explorer5.0、Netscape Communicator5.0以上を推奨しています。
掲載写真・地図等の無断転用はご遠慮ください。
Copyright(C)2007-2008 Internet Hatsusaburo Musium. All Rights Reserved.