博多・冷泉地区(旧冷泉小学校区)まちづくり戦後史 1945〜2007


福岡大空襲と終戦
福岡進駐と接収統制
戦後復興計画
商店街・歓楽街の復興
町世話人制度
博多祇園山笠と地域住民
博多松ばやし・おくんちと住民
昭和30年代のにぎわい
町界町名改正・流存続の危機
自治連合会の発足
博多駅の移転
店屋町界隈の変化
市内電車の廃止と地下鉄登場
櫛田神社と冷泉地区
地域教育
冷泉小学校の統廃合
地域の活動(運動会・成人式etc)
昭和から平成へ
町世話人制度廃止と自治協発足
地域の課題と未来


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博多・冷泉地区の戦後と自治連合会40年のあゆみ
昭和30年代のにぎわい
高度経済成長と娯楽、商都博多の発展。

 戦後の商店街復興に加え、朝鮮戦争の特需も受けて博多の町は昭和30年代の黄金時代を迎えた。櫛田神社の祭りの復興とともに商都博多の勢いは増し、昭和28年には櫛田神社氏子代表だった落石栄吉氏が「櫛田神社奉納の形にもっていけば、年中行事として発展、また神社も商人も一挙両得。」と提案。博多部の各商店街や福岡玉屋、渕上、大丸の各デパートを加えた五百以上の商店が参加して「博商会」を結成。この年秋の「博多おくんち」には西日本一帯から買い物客が繰り出し、以後毎年規模が拡大されて秋の大売り出しとなって各商店は繁盛した。
 また、電車通り筋には新たに博多銀座商店街が完成、オーニングを取り付け表通りの面目を一新した。
 上川端商店街では昭和33年7月に全長3百20メートルのオーニングを設置竣工、さらに昭和41年10月には福岡市初となる「カラー舗装道路」を完成し、工費2千万円をかけテラゾールとよばれる人造大理石を敷き詰めた美しい新道路は話題となった。続けて昭和42年3月には隣接する川端中央商店街もカラー舗装を完成し、さらには新駐車場も整備するなど「平面デパート」としての商店街が完成した。
↑戦前以上となった東中洲の活況・電車通り(昭和35年)
 一方、中洲の歓楽街も昭和30年代になると戦前以上の活況となり、特に映画館は最盛期の昭和32年には中洲地区だけで17館を数えた。館名を挙げると「福岡公楽劇場」「福岡大映」「文化劇場」、昭和三十二年開館の「福岡宝塚会館」「福岡有楽」「福岡日活」「博多日活」「大洋映劇」「ニュー大洋」「福岡東宝」「福岡松竹」「タマヤホール」「多門映劇」「福岡東映」「東映地下劇場」「ハリウッド映劇」「テアトル川丈」「中洲映劇」「福岡SY松竹座」となっている。
 映画産業はこの後衰退の一途を辿り、昭和33年をピークに減り続け、平成20年1月現在「大洋映画劇場」一館となった。当時は西鉄ライオンズの最盛期にあたり日本選手権三連覇の時期である。プロ野球の隆盛やテレビの普及によるナイター中継などで平和台球場のナイター当日は入場者数が激減していたという。
 中洲以外にも冷泉地区にはこの時期、博多駅前に「ハカタ映劇」、店屋町に「富士映劇」などがあった。
↑博多日活ホテルの左隣に国際ホテルが見える(昭和30年頃)
 また昭和29年2月には、米大リーグのスター、ジョー・ディマジオとマリリン・モンロー夫妻が来福。東中洲那珂川河畔にあった国際ホテルに宿泊、ホテル周辺は大変な人だかりとなった。二人は近くのロイヤル・ベーカリー(花の木)へお忍びで通ったが、その際使用した椅子などが大濠公園のレストラン「花の木」に残っている。
 同じ昭和29年には那珂川河畔に中洲で初めての高層建設ビル「ラッキービル」が誕生し、以後の高層ビルの幕開けとなって町並みも変化していく。また昭和30年には高級クラブ「薊」が開店するなど、歓楽街として中洲は進化していく。
 昭和38年、博多駅の移転を控えて、博多部活性化のために博商会が「博多川駐車場建設」を市に陳情し、河川上の駐車場(上・中・下)が完成して市に寄贈。この駐車場は福岡玉屋が廃業した平成11年以降、博多川河畔の歩道・車道整備により平成15年2月までに順次撤去された。
 昭和38年暮れの博多駅移転により、次第に人の流れが変化するのは昭和39年以降である。






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