博多・冷泉地区(旧冷泉小学校区)まちづくり戦後史 1945〜2007


福岡大空襲と終戦
福岡進駐と接収統制
戦後復興計画
商店街・歓楽街の復興
町世話人制度
博多祇園山笠と地域住民
博多松ばやし・おくんちと住民
昭和30年代のにぎわい
町界町名改正・流存続の危機
自治連合会の発足
博多駅の移転
店屋町界隈の変化
市内電車の廃止と地下鉄登場
櫛田神社と冷泉地区
地域教育
冷泉小学校の統廃合
地域の活動(運動会・成人式etc)
昭和から平成へ
町世話人制度廃止と自治協発足
地域の課題と未来


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博多・冷泉地区の戦後と自治連合会40年のあゆみ
博多祗園山笠
戦後再開と流れ再構成、
危機を乗り越えた町の絆。

 博多年中行事の華である博多祗園山笠は、太平洋戦争中も規模を縮小するなどで昭和19年まで継続されたが、福岡大空襲直後の昭和20年はさすがに祭りどころではなく中断された。この間、昭和19年9月には戦意高揚などのため映画「陸軍」が製作され、西部軍司令部の要請で新たに山笠を作り、勇壮なかき山笠シーンの撮影に協力している。
 終戦後、焦土と化した博多部であったが、翌昭和21年5月には奈良屋校区に建てられた復興住宅組合が「第一次博多復興祭」を主催。松ばやし、どんたく行列に加えて人形の代わりに絵を載せた「中子供山笠」も登場、「オッショイ、オッショイ」の掛け声も勇ましく瓦礫の中をかき回った。標題の「みんなの博多 みんなで復興」が博多人の意気込みを示していた。
 昭和22年になると山笠再興の気運も盛り上がり、七流の当番町の代表が集まって協議するまでに至ったが、人員、費用の面から無理との意見が強く見送られ、この年も西浜町と恵比須町で子供山笠二本がかき回っただけであった。
 昭和23年、この年が博多祗園山笠の戦後史の始まりである。各流有志の献身的努力により、かき山七本が博多の街に建ち、祭りの行事も復活した。物資不足の時代を反映して、かき山笠は人形ではなくベニヤ板に絵を描いた質素なものであったが、4年ぶりとあってかき手、見物人とも大いに盛り上がった。この年は追い山、追い山ならし共「櫛田入り」だけであった。
↑博多祇園山笠・土居流(昭和49年)
 前年に誕生していた博多五町商店街では期間中、大黒流内に本格的な「飾り山笠」を建設。連日多くの見物客が詰めかける盛況となり、これをきっかけに流で維持される「かき山笠」と商店街などが建てる「飾り山笠」とに、完全に分離するようになった。
 昭和24年には新しい組織づくりが始まり、4月8日に「博多祗園山笠振興期成会」が誕生した。この際、従来の「大黒流」「呉服町流」「西町流」「恵比須流」「東町流」「土居流」「福神流」の七流に加え、新しく「櫛田流」「岡流」「浜流」「築港流」「中洲流」が加わり総数12となった。同年には櫛田神社境内に飾り山笠が建設され、博多人形師が腕によりをかけた人形が飾られて、復興にさらなるはずみとなった。この年、飾り山笠に中洲や新天町が加わり計四本、かき山笠は六流が参加した。
 翌25年は朝鮮戦争勃発直後の混乱の中、この年から「中洲流」もかき山笠に参加している。期成会の活動も本格化し、ポスター製作や近隣地へのPR作戦などその後の期成会、振興会の活動の原型ができている。
 26年からは「西町流」「土居流」が復活、翌27年にはかき山笠14本、飾り山笠13本となり、朝鮮戦争による特需ブームを背景に、博多の商業も活気を完全に取り戻した。
 翌昭和28年は直前の6月に大水害が発生。那珂川や御笠川も溢れて大被害となった。このため期成会では各流の経費を節約して義援金を送るなどしたが、県災害対策本部から「かき山笠」自粛中止要請があり、規模を縮小自粛して決行した。この間、各流や飾り山笠関係の商店街から交代で那珂川の番托井ぜきに出動、保安隊などとともに井ぜきの復旧作業に従事し、祭り中の13日の「せき止め」作業には各流から千人が参加している。同井ぜきの早期復旧により、市内西部の水田約3百町歩の田植えが無事に行われ、昭和30年に同井ぜきそばに建てられた復旧碑には、この労働奉仕への感謝が記されている。
 この年の5月、博多祇園山笠振興期成会は福岡県教委に「福岡県無形文化財」指定の申請書を提出、六月には指定が決定。さらに「国の無形文化財」にも申請し、翌29年3月に「助成すべき無形文化財」として選定され、名実ともに九州、日本を代表する祭りとなった。
 昭和30年1月、期成会は発展的解散。新たに伝統保存とともに国際文化都市博多の観光価値を高めることなども活動に盛り込まれた「博多祇園山笠振興会」が発足した。翌31年には「学童山笠スケッチ大会」が始まり、32年の「櫛田神社御鎮座千二百年大祭」はさらに盛大に実施されるとともに、国の重要文化財としての格調護持が申し合わされた。
 文化財保護法の改正により一端文化財指定が消滅したが、昭和39年には行事そのものの認定は見送られたが「国の民族資料」として選択され、昭和54年には改めて「国の重要無形民族文化」に指定された。
 この間、博多部では昭和41年に町界町名改正が行われ、具体化する過程で昭和40年には由緒ある町名が消滅する「土居流」が存続の危機となる。参加十ヵ町の足並みが揃わないために流の正式解散が決定されたが、若手を中心とした有志は「土居流保存会」を結成し正式に参加した。 翌41年は呉服町流は東西に分散、存続した各流も町名変更に伴う再編成は困難を極め、旧来通りの六流を目標に検討され、東町流が「東流」、西町流が「西流」として再編成、現在へ続く流の整理がこの年の山笠開催直前の5月19日まで討議された。町名変更後も流の町境調整がつかず2、3年間各流間でぎくしゃくすることもあったが、町民の努力により博多祇園山笠は存続、さらに発展し現在に至っている。




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