博多・冷泉地区(旧冷泉小学校区)まちづくり戦後史 1945〜2007


福岡大空襲と終戦
福岡進駐と接収統制
戦後復興計画
商店街・歓楽街の復興
町世話人制度
博多祇園山笠と地域住民
博多松ばやし・おくんちと住民
昭和30年代のにぎわい
町界町名改正・流存続の危機
自治連合会の発足
博多駅の移転
店屋町界隈の変化
市内電車の廃止と地下鉄登場
櫛田神社と冷泉地区
地域教育
冷泉小学校の統廃合
地域の活動(運動会・成人式etc)
昭和から平成へ
町世話人制度廃止と自治協発足
地域の課題と未来


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博多・冷泉地区の戦後と自治連合会40年のあゆみ
商店街・歓楽街の復興
人々の活気が集う、商店街や歓楽街の復活。

 戦後すぐ、ヤミ(自由)市は各地に早くから出現していたが、これらの殆どは素人で商売の訓練も受けておらず、商業道徳を持ち合わせていない手合いであったため、度々もめ事も起こっていた。
 戦後、福岡市内の商店街復興は昭和20年12月に天神町の福岡女専跡の西日本公正商店街公社(登記は21年6月)の設立から始まった(竣工は翌21年10月15日、新天町)。集まったのは焼け出されて店を失った博多の商人たちであった。
 翌21年2月には綱場町商店街が復興。道路幅を拡大し装い新たな寿通り商店街は昭和22年6月に竣工し、時を同じく下新川端商店街も第一期工事が竣工。川端通り商店街を加えた四商店街が「博多商店街」と命名され22年6月に発足、翌7月11日に落成式を兼ねた結成披露式と大売り出しを開催している。
↑戦災直後の東中洲、右奥には焼け残った福岡玉屋が見える
 戦災を免れた上川端町から電車通り福岡銀行に至る道路は、8メートルの真っ直ぐな拡幅新道路計画案と、非災商店街をそのままに罹災地区のみを拡幅する案とで地元を二分する騒動となり、昭和21年10月の町民大会などを経て解決、見通しの利く直線コースの道路計画が生まれた。
 この新道路計画の浜側にあたる、下新川端町商店街の第二・三期工事(現在の川端中央商店街)は「下新川端町商店街復興組合」を結成して行われ、昭和23年4月および5月に起工、夏には完工した。木造二階建瓦葺き、工事は清水建設で、消火栓なども特設された。
 上川端商店街は一部を残して戦災を免れたが、罹災した各商店も自力で家を建てて商売を始めた。しかし周囲には空き地もあり、また周辺で次々に復興する商店街と対比して見劣りの感が強く、共存共栄をはかるべく上新川端商店街復興組合が結成され、星野武雄氏を建設委員長として昭和24年1月起工地鎮祭、周辺商店街と同じく木造二階建瓦葺きで同年12月24日に完工、落成式が盛大に行われた。
↑復興した下川端商店街と電車通り(昭和27年頃)
 これとは別に、昭和22年4月、戦後の新興商店街や市場など市内26団体(福岡玉屋、博多駅前市場も参加)による福岡商店街連盟ができ、同年六月には「商都博多発展期成会」
が設立されて博多が一体となった本格的な復興機運が高まった。
 一方、中洲の歓楽街も荒涼たる焼け野原と化していたが、21年1月には博多日活、4月には大洋洋画劇場がいち早く開館して中洲は次第に活気を取り戻す。劇場前には戦災を乗り越えた食堂や割烹商店が並んだが、広い東中洲全体のほんの一部であった。
↑下新川端商店街の入口(昭和24年頃)
 昭和21年7月、楽天地建設共同組合が結成され23年3月に落成。22年5月には「東中洲復興期成会」が結成され、本格的な復興がスタートした。玉屋デパート裏手の芳町商店住宅などが相次いで建設され、翌23年9月に合同落成式が多門座(22年3月復興)で開かれた。
 また、昭和23年4月には中洲市場が着工、提唱者は音藤忠且氏で同年10月開業、「ふくや」も入店し創業者・川原俊夫氏は専務理事となった。
 翌24年3月には福岡玉屋に「タマヤシネマ館」が開業、12月には玉屋屋上に動物園が誕生し、子ども連れで賑わうなど、着実に復興を遂げていった。
↑東中洲の電車通り(昭和26年頃)




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