博多・冷泉地区(旧冷泉小学校区)まちづくり戦後史 1945〜2007


福岡大空襲と終戦
福岡進駐と接収統制
戦後復興計画
商店街・歓楽街の復興
町世話人制度
博多祇園山笠と地域住民
博多松ばやし・おくんちと住民
昭和30年代のにぎわい
町界町名改正・流存続の危機
自治連合会の発足
博多駅の移転
店屋町界隈の変化
市内電車の廃止と地下鉄登場
櫛田神社と冷泉地区
地域教育
冷泉小学校の統廃合
地域の活動(運動会・成人式etc)
昭和から平成へ
町世話人制度廃止と自治協発足
地域の課題と未来


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博多・冷泉地区の戦後と自治連合会40年のあゆみ
福岡大空襲と終戦
町の六割が焦土と化した。

 太平洋戦争末期の昭和20年、平和台の第十六方面軍事司令部には、米軍の九州上陸作戦に備えて「西部軍管区司令部」が設置されていた。また福岡県庁には九州地方総監府が設けられ、防空演習・訓練は日を追って厳しさを増していた。
 昭和19年からは空襲時の火災を最小限にとどめるため、軍命令により民家の「強制疎開」も始まった。空襲当日まで福岡市全域で約1万5千戸が引き倒し撤去されたという。
 冷泉地区域でも中島町などの現在昭和通りとなっている道筋一帯をはじめ、東中洲四丁目の旧福岡電話局周辺も早々に撤去。那珂川畔の現在清流公園になっている一帯ではブラジレイロをはじめとする名店や老舗旅館などが次々と撤去された。
↑戦災直後の下川端電車通り(「戦後博多復興史」より)
 博多部でも現在国体道路となっている道筋一帯では、かろのうろん等も撤去。冷泉公園と現公民館前の道路筋一帯、現在の土居通り筋一帯、冷泉公園南角から博多座へと向かう一帯も撤去され、青龍堂も対象となっている。当時の子供たちは撤去され空き地となった広い場所で遊んだ記憶のある方も多い。
 市民の日々の暮らしの中にも空襲への危機感が高まる中、運命の昭和20年6月19日がやってきた。灯火管制に入って間もなく、午後10時30分過ぎに空襲警報が鳴り響き、人々は防空壕へと退避したが、地響きをたてて家屋に落ちる焼夷弾のため、博多部一帯はたちまち火の海となり、一夜にして焦土と化した。福岡市全体では四分の一の面積が罹災し、冷泉地区・中洲地区も浜側の大半を焼失した。
 罹災地域の8割が冷泉・中洲を含む市中心部であり、市全体の罹災戸数は12,693戸、罹災人口60,599人、死傷者数2,224人(うち死亡902人)という大きな犠牲が出た。中でも最も悲惨だったのは、片土居町の「十五銀行ビル」(現在の博多座のある場所)で、地下室へ退避した住民が停電となって出入口の鉄扉が開かず、そのまま63人が焼死した。
 犠牲者を供養するため、昭和30年に片土居町民や旧西日本銀行の手で町内の栄昌寺境内に「じゅうご地蔵」が建立されたが、平成12年、寺の移転(西区今宿青木)に伴い地蔵も移されている。
 空襲により市民の主な交通機関であった市内電車も大半が破壊され、交通機関も麻痺した。疎開していた地域の方には罹災を免れた博多駅に降り立ち、安堵したのもつかの間、浜側へ行くにつれて眼前に広がった焦土と化した故郷が今も目に焼き付いている年輩者も多い。
 橋も焼け落ち、川面には焼死体が流れ、街中は瓦礫が道路を埋め尽くしたという。罹災した人々は縁故知人を頼って博多を離れたものも多かった。
 福岡大空襲から2ヶ月後の昭和20年8月15日正午、玉音放送とともに太平洋戦争は集結。敗戦による虚脱感もあったが、当時を知る年輩者の中には、子供であったため、とにかく防空壕に入らなくて良いと知って、開放感があったという方も多い。
 敗戦の日の夜、街中には「米軍がすぐ上陸してくる」というデマが流れ、荷車やリヤカーに荷物を積んで避難をはじめ、電車通りが避難者で一杯になるという光景もあったという。




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