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博多部でも現在国体道路となっている道筋一帯では、かろのうろん等も撤去。冷泉公園と現公民館前の道路筋一帯、現在の土居通り筋一帯、冷泉公園南角から博多座へと向かう一帯も撤去され、青龍堂も対象となっている。当時の子供たちは撤去され空き地となった広い場所で遊んだ記憶のある方も多い。
市民の日々の暮らしの中にも空襲への危機感が高まる中、運命の昭和20年6月19日がやってきた。灯火管制に入って間もなく、午後10時30分過ぎに空襲警報が鳴り響き、人々は防空壕へと退避したが、地響きをたてて家屋に落ちる焼夷弾のため、博多部一帯はたちまち火の海となり、一夜にして焦土と化した。福岡市全体では四分の一の面積が罹災し、冷泉地区・中洲地区も浜側の大半を焼失した。
罹災地域の8割が冷泉・中洲を含む市中心部であり、市全体の罹災戸数は12,693戸、罹災人口60,599人、死傷者数2,224人(うち死亡902人)という大きな犠牲が出た。中でも最も悲惨だったのは、片土居町の「十五銀行ビル」(現在の博多座のある場所)で、地下室へ退避した住民が停電となって出入口の鉄扉が開かず、そのまま63人が焼死した。
犠牲者を供養するため、昭和30年に片土居町民や旧西日本銀行の手で町内の栄昌寺境内に「じゅうご地蔵」が建立されたが、平成12年、寺の移転(西区今宿青木)に伴い地蔵も移されている。
空襲により市民の主な交通機関であった市内電車も大半が破壊され、交通機関も麻痺した。疎開していた地域の方には罹災を免れた博多駅に降り立ち、安堵したのもつかの間、浜側へ行くにつれて眼前に広がった焦土と化した故郷が今も目に焼き付いている年輩者も多い。
橋も焼け落ち、川面には焼死体が流れ、街中は瓦礫が道路を埋め尽くしたという。罹災した人々は縁故知人を頼って博多を離れたものも多かった。
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