前田虹映たちによる鳥瞰図執筆風景(1928年)

■ Index ■

前田虹映の経歴 | 前田虹映の紹介 | 主な作品紹介 | 作品集 | 恩師吉田先生 | 父をたずねて |謝辞 

 

■ 前田虹映の経歴 ■
本名 前田 穣(マエダ ユタカ)

明治30年6月19日(1897年) -------------------------------------
父 前田三吉、母 前田ヤスの次男として、山口県玖珂郡柳井町大字柳井318番地にて生まれる。

大正14年(1925年) ----------------------------------------------
香川県小豆郡豊島村大字家浦1834番地 中村平三郎とマンの次女 中村トシコと婚姻。愛知県丹羽郡城東村大字継鹿尾字川端216番地の22にて、長女 登代美子,長男 稀,次男 洋白,三男 明臣,四男 武毅が生まれる。

昭和11年(1936年) ----------------------------------------------
大阪府池田市井口堂138番地に転居、五男 孝が生まれる。昭和14年大阪府池田市北轟木58番地に転居、次女 美津子,六男 一光が生まれる。

昭和20年6月8日(1945年) -------------------------------------------------------------
午前2時30分 妹 藤山スエ子方 山口県玖珂郡新庄村にて死亡、享年49歳。尚、墓は愛知県小牧市小松寺にある。
中村トシコの姉 中村フサ(百合子)は吉田初三郎の二人目の妻、従って吉田家・前田家は親戚になる。

吉田 初三郎 親族 1930年正月
■ 前田虹映の紹介 ■
藤本先生による前田虹映の紹介 
 十指を屈する吉田初三郎画伯の弟子達(金子常光氏、中田富仙氏は除く)の中で、一番の高弟である前田虹映(本名は穣)は、明治30年山口県柳井市の生まれ。21歳になった大正7年春、上京して当時風景画の重鎮として時めいていた田中頼璋氏の門下生になり、画壇でも注目されていたのであったが、ふとした機会から鳥瞰名所図絵の世界で大活躍の初三郎の主張と画風に心服し、ついには大正10年、24歳の時に初三郎の門を叩いて認められる
 その翌年には、初三郎に協力して、『秩父ながとろ遊園地図絵』(第1作)を出版。この年には、初三郎の経営する大正名所図絵社(観光社の前身)に参加していた小山吉三氏、金子常光氏は小山氏の弟・中田富仙(甚吉)氏を連れて退社し、日本名所図絵社をおこしているので、より一層、師を助けて名所図絵の完成に力を傾注してきた画伯であり、絵師であった。初三郎工房としてのプロダクション的要素があいまって、数多くの作品が誕生した昭和初期、特に昭和4年は108点以上の作品群があり、驚異的ではある。この頃の画室は、前田虹映、名川朝太郎氏、その他画室にいる数名の画生達によって運ばれてゆくのでありますが、勿論吉田先生も画室にいる間は其の側につききりで絶えず其処此処のと訂正の画筆を揮われるのであります。前田虹映は弟子達の中心的存在として、師の深い信頼を集めていたのであった。


前田虹映の第1作『秩父ながとろ遊園地図絵』

【景勝宣伝社、後の景勝出版社をおこす】
 将来は第2世の大正広重、初三郎の後継者として俊才を讃えられていた前田虹映だったが、政情不安や検問の厳しさなどが高まる中の、昭和11年4月、初三郎が犬山の日本ライン蘇江画室から八戸市種差海岸別邸に本拠地を移したことを契機にして、高弟前田虹映は独立。画室を山口県柳井市の実兄の家に移し、福山市の景勝宣伝社を舞台に、独立後の第1作『大本山善通寺図絵』を発表している。

【前田虹映作品の特色と魅力】
 鳥瞰図折本や小冊子、絵はがき、パンフレットなどに描かれた鳥瞰図を中心とした作品数は、西日本を中心に70点近くになるのではなかろうか。昭和11年に独立し、昭和20年に死亡するまでの、たった9年間の業績だが、初三郎の高弟としての15年間も含めての修業と技を磨き、初三郎の爛熟期と似た画風を生んでいる。一心同体的なのは、初三郎の親戚であり一番弟子であったことも影響しているようだ。

■ 前田虹映の主な作品紹介  ■
1.鳥瞰図
  • 『大本山善通寺図絵』 善通寺 (昭和11年)  
  • 『観音寺御図絵』 観音寺 (昭和11年5月)  
  • 『神都(伊勢参宮之図の表紙絵)』 (昭和11年)  
  • 『讃岐金比羅宮参拝御案内図』 琴平町 (昭和11年)  
  • 『岐阜県主要観光地案内図』 岐阜県観光協会 (昭和12年)  
  • 『指宿摺ヶ浜温泉偕楽園御案内』 偕楽園 (昭和12年)  
  • 『津市観光図』 津市観光協会 (昭和12年5月)  
  • 『観光と産業の松阪市』 松阪市役所 (昭和12年)  
  • 『九州武蔵温泉延寿館ホテル御案内』 延寿館ホテル (昭和13年)  
  • 『鐘秀館御案内、奈良川の鵜飼鐘館すみのや観光図』 鐘秀館 (昭和13年1月)  
  • 『讃岐支渡寺図絵』 支勝寺保勝会 (昭和13年)  
  • 『史跡笠置山案内』 笠置史跡勝地保存会 (昭和13年)  
  • 『城崎温泉、躍進の城崎温泉観光図』 城崎商工会 (昭和13年)  
  • 『浦富海岸と岩井温泉』 浦富顕勝会 (昭和14年)  
  • 『福岡・久留米・大牟田三都観光図絵』 三市役所 (昭和14年7月)  
  • 『国立公園大山と鳥取県観光図』 大山公園協会 (昭和14年11月)  
  • 『大垣市観光図』 大垣市役所 (昭和14年3月)  
  • 『躍進の島原観光図』 島原町役場 (昭和14年)  
  • 『若草山大観』 奈良観光課 (昭和14年)  
  • 『太宰府天満宮観光図』  
  • 『聖地橿原神宮と奈良観光』 奈良市観光課  
  • 『九州観光図絵』 日本観光連盟九州支部 (昭和15年) 2点  
  • 『福岡観光図』 3点  
  • 『鹿児島市観光図』鹿児島市観光課 3点
  • 『熱海温泉観光図』熱海市役所観光課  
  • 『人吉町観光図』 鍋屋旅館・旅館料亭芳野・人吉旅館 (昭和15年7月)  
  • 『中津市と耶馬渓名勝観光図』 中部耶馬渓観光協会 (昭和16年3月)
2.絵葉書
  • 『土讃線全通記念南国土佐大博覧会』高知市役所 (昭和12年)
  • 『奈良』6枚(籐影堂)
  • 『太宰府天満宮』 26枚(太宰府神社奉賛会)
  • 『安芸の宮島』 6枚
  • 『鳥羽名物海女の絵』 1枚  
  • 『鹿児島名勝料亭の図』 3枚  
  • 『琴平町』 3枚(琴平町役場)  
  • 『宮島ホテル』 4枚(宮島ホテル)  
  • 『唐津』 2枚(唐津市役所)  
  • 『鹿児島名所』 1枚(鹿児島観光協会)  
  • 『南薩名所』 3枚(枚門神社社務所)  
  • 『観光の福岡』 5枚(福岡市観光協会)  
  • 『関西随一の仙境 伊勢湯の山温泉』 5枚(山の湯温泉 寿亭)
  • 『国立公園箱根塔之澤温泉 一之湯本店』 3枚(一之湯本店)
  • 『伊勢榊原温泉名勝』 3枚(榊原館)
  • 『尾道名勝』 5枚(尾道市役所)
  • 『景勝耶馬渓』 10枚(中津耶馬渓観光協会)
  • 『福岡県護国神社御社殿』4枚(福岡県護国神社)
  • 『談山神社』 2枚(景勝出版社)
  • 『岐阜名勝』 3枚(鐘秀館)
  • 『春日奥山週遊記念』1枚(奈良自動車)
  • 『南国土佐名勝』 1枚(野村自動車)
  • 『観光の唐津名勝』 4枚(唐津市役所)
  • 『観光の中津』 5枚(中津耶馬渓観光協会)
  • 『銃後の久留米』 5枚(久留米市役所観光協会)
  • 『侍月楼と観光の鳥羽』 2枚(志摩鳥羽浦 侍月楼)
  • 『箱根強羅温泉強羅ホテル』1枚
  • 『久留米市観光図』 4枚

3.其の他

  • 掛け軸:伊勢神宮,耶馬渓等
  • 着物,帯の作画
■ 作品集 ■
 
<春日奥山週遊記念>
<箱根強羅温泉強羅ホテル>

<南国土佐名勝>
<南国土佐大博覧会>

<秩父ながとろ>

<岐阜県主要観光地案内図(岐阜県観光協会)>(昭和12年制作)

<国立公園大山と鳥取県観光図(大山公園協会)>(昭和14年11月制作)

<熱海温泉観光図>

<鹿児島観光図(鹿児島市観光課)>(昭和16年3月制作)

<城崎温泉、躍進の城崎温泉観光図(城崎商工会)>(昭和13年制作)

<聖地橿原神宮と奈良観光>(昭和15年制作)

<九州観光図絵(日本観光連盟九州支部)>(昭和15年制作)
■ 恩師 吉田先生 ■

吉田初三郎先生(1884〜1955年)は、日本の鳥瞰図の先駆者であります。
京都に生まれた吉田先生は、初めは友禅織物の図案の職工等をした後、洋画家を目指し絵の修行を行い鹿子木孟調大先生の門に入りました。その鹿子木大先生に勧められたのがきっかけでありました。
最初に描いた鳥瞰図は京阪電車沿線各部図絵であり、それが時の皇太子殿下(昭和天皇)の目に留まり、これはきれいでわかりやすいと誉められたのを機に多くの鳥瞰図を描いたのです。
吉田先生の仕事は日本全国各所図絵を完成させ、かの有名な東海道五十三次の絵師広重の後を現在に活かし、これを後世に伝えて大正、昭和時代の日本特有の芸術として残したいものであります。

■ 父をたずねて〜ホームページ制作にあたり〜  by 前田 稀(マレシ)<虹映の長男>
鳥瞰図は私達にとっては良き時代もありましたが、戦争のお陰で描く事が出来ず、大変苦労したようです。以来今日まで60年近く絵描きという職業を嫌い、口に出さずにきましたが、先日中日新聞をみてから、日本福祉大学知多半島総合研究所の皆様方、知多四国霊場会71番大智院 長谷川実彰様に快くお会いしていただき非常に有り難く思っております。扶桑書店の井上さんに初三郎研究会の石黒様・藤本先生・初三郎蒐集家浅野様を紹介していただき、前田虹映のことを少しでも興味があるとお聞きし、親父の偉大さを改めて知り、考えが変わりました。
その後、福岡の益田さんにお会いすることができ、貴重な資料を戴き九州方面の初三郎、虹映の原画の発掘に努力され僕も見せてもらい感動しました。とにかく、父の絵の理解者で感謝しています。
今一人、同じく福岡田川の松岡さんも資料探索に多大な協力をして頂き感謝しています。
■ 父のホームページを作るにあたり僕の独り言の感想
平成2年に、2代目吉田初三郎(朝太郎)さんにお会いしたとき、色々と僕にはお話をして頂き、僕の脳裏に焼き付いています。今考えれば、録音でもしていれば良かったと思います。とかく芸術家という人は頑固で融通が利かない、そして自分の事を余り喋らない人が多いです。前田虹映、吉田朝太郎もしかりです。でも僕だけには、色々とお話しして頂きました。僕にとっては恩人であり良き理解者でもあったのです。
吉田初三郎が今、世の中で注目されていますが、彼の奥さんである百合子さん(僕の叔母)の人脈のお陰で多くの著名人と知り合う事が出来、彼の営業の上手さで多く依頼があり、虹映、朝太郎他の弟子達の力でこれだけの絵が描けたと思います。特に朝太郎さんは、吉田家の百合子さん、そして僕の姉の面倒を見て頂き、吉田初三郎一代に仕え一生を過ごした人です。また、朝太郎さんの妹さんが初三郎を最後に看取った人です。これらは紛れもない事実です。

■ ホームページ制作にあたりご協力頂いた人 ■

<藤本 一美> 
1947年鳥取県康旧町生まれ
現在 都立砂川高校の教諭
登山家で鳥瞰図の研究に取組む
鳥の眼で世界各地を旅し、山登り自然や人々の暮らしぶりや文化に接しての眼で社会を鋭く見ていきたい。

<井上 洋二>
古書 扶桑文庫経営者
   住所 〒483-8212 愛知県江南市古知野町瑞穂71番地
   TEL 0587(51)5200
   FAX 0587(51)5229
   [扶桑文庫ホームページ

<益田 啓一郎> 
WEB地図の資料館 主宰、日本絵葉書会 幹事(九州支部)
グラフィックデザイナー。企画会社運営の傍ら、吉田初三郎、前田虹映、吉田朝太郎の画業研究に

取り組む。博物館・資料館などの初三郎展などに企画協力。著書に「ふくおか絵葉書浪漫」等。

■ ホームページ問い合わせ先 ■

前田 稀(マレシ)  ※ちなみに私の名前は初三郎が名付け親です。
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